『メトミミトヤミーー小泉セツと八雲の怪談』
- 東浦弘樹
- 2016年6月12日
- 読了時間: 3分
すばらしいものを見せてもらいました。ピッコロ劇団の『メトミミトヤミ――小泉セツと八雲の怪談――』(作:角ひろみ、演出:鈴木田竜二)のことです。
あまりにすばらしいので6月9日(木)に引き続いて今日(12日)にも見に行きました。
初回は勿論、2度目でも私は客席でずっと泣いていました。
角(すみ)ひろみさんの芝居は、これまでに『虎と月』(ピッコロ劇団)と『囁谷シルバー合唱団』(劇団円)を見ており、どちらも大好きでした。しかし、今回の芝居はさらにそれをしのぐ出来です。
私はもともと伝記ものが苦手で、坪内逍遥であれ谷崎潤一郎であれ小泉八雲であれ、作家の人生なぞどうでもいいと思っているのですが、『メトミミトヤミ』は全く違います。
誰のことばだったか忘れましたが「語る人間より語られる物語を」というのをスティーヴン・キングが連作小説集『恐怖の四季』(なんて邦題だ! 原題はFour Seasonsのはずなのに)のどこかにあげていたと思います(ついでに書いておくと、映画で有名になった『スタンド・バイ・ミー』はこの連作集の「夏」の部です)が、まさにそれ。
テーマは「作家の人生」ではなく、「作家と作品の関係」あるいは「物語ることに対する作家の情熱」であり、「人はなぜ物語を語るのか、なぜ物語を聞きたがるのか」です(ここに書いてしまうと安っぽくなってしまいますが、「頭のどこかの小部屋にいる忘れられた死者たちを一瞬蘇らせるため」というのが、この芝居での答えです。日頃から私は人間は物語を必要とする生き物だと思っているので、その通りだと膝を打ちました)。
小泉八雲の人生を縦糸に、作品(「耳なし芳一」とか「雪女」とか)を横糸に編むという構成がすばらしく、それでいて描くのはセツとの出会いから結婚までにとどめ、その後の人生はセリフでさらりと説明するにとどめるというところがすばらしいと思いました。
私が昨年10月に上演した『チェーホフなんか知らない〜または、余はいかにしてロシアの文豪となりしか』でやろうとしたのも、まさにそれです。それだけに快哉を叫ぶとともに、少し(かなり?)くやしくもありました。
そしてまた、役者のみなさんが瞬時にひとつの役から別の役へ、あるいは語りへ移行するのに魅了されました。なかでも猫、蛍、山鳩を演じた三人の女優さんはすてきでした。
絵的には、序盤の蛍の場面と終盤の雪の場面が息をのむほど美しいと思いました。特に蛍について言うと、「小さきもの」というのは座敷童だろうと勝手に思い込んでいたので、蛍の灯が出て来たときには全身が総毛立つ思いがしました。それもこれも舞台に出ている役者さんたちの動きが計算尽くされたものだからでしょう。
小泉八雲が少し複雑な……というかむずかしいことを言うとき、カタコトの日本語を捨てて流暢に話し出すというところも好きでした。勿論あれはわざとしていることで、八雲の考えていることがそのまま流れ出しているのだからあれでいいのだ/あああるべきなのだと理解しています。
そのほか、「寝てない、書いてる」や小泉家の庭の描写の繰り返し(私は繰り返しと細部の照応にこそ芝居の美しさがあると思っています)や物語の最初と最後がきちんとつながっているところもすばらしいのですが、山鳩を演じた木全さんが一度だけ「ポゥ」と言いながらマイケル・ジャクソンの真似をするところや、井戸の上におかれた蝦蟇の置物がラストで2匹に増えているというような小さな演出に気づくと、思わず「ふふふ」と微笑みが浮かんできます。
また、八雲が「○○血だ」の○○の部分に入れるべきことば――「おお」とか「おや」とか「え?」とか――を探しているとき、セツに「どこかで読んだ表現ではだめだ。自分のことばでなければならない」とか「そのときの血の色は? 臭いは?」という趣旨のことを言う場面は、ものを書く人間にとって、あるいは役者にとって非常に重要なことを言っているように思えました。
ものを書く人間、演劇を志す人間は絶対に見るべき芝居だと思います。
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